以前、認知症の薬、いま何が変わったのか という記事で、進行を遅らせる新しい薬(レカネマブ、ドナネマブ)をご紹介しました。

あの記事を書いたあと、読者の方からこんなご質問をいただくことがありました。

「せっかく効く薬ができたのに、どうして『少し遅らせる』程度なのですか?」

もっともなご質問だと思います。今回は、その答えのひとつになりそうな話をお届けします。

結論から申し上げると、こういうことでした。

投与した薬の大部分は、そもそも脳に入っていなかった。

脳には、外から入ってくるものを厳しく選り分ける 「関所」 があります。薬は、その関所でほとんど止められていたのです。

そしていま、この関所をどう越えるかという研究が、静かに、しかし確実に進んでいます。

✅ 脳を守る 血液脳関門(けつえきのうかんもん) という関所があり、抗体の薬はここをほとんど通れません

✅ 突破する方法が2つ試されています。超音波で門を一時的に開ける 方法と、通行証を持った「乗り物」に載せる 方法です

✅ ただし、どちらも まだ数人〜数十人規模 の段階です。期待しすぎず、しかし目は離さずに


目次

  1. 脳には「関所」がある
  2. 薬は、関所で止められていた
  3. 方法① 超音波で門を開ける
  4. 方法② 通行証つきの乗り物に載せる
  5. ここは正直に ― まだ数人の話です
  6. それでも、意味があると思う理由
  7. いま、私たちにできること
  8. おわりに
  9. 参考にした情報

脳には「関所」がある

脳は、体のなかでも特別に守られている臓器です。

その守りの中心が、血液脳関門(けつえきのうかんもん) と呼ばれるしくみです。英語の頭文字をとって「BBB」と呼ばれることもあります。

毛細血管のイラスト

脳のなかを走る血管は、壁の細胞どうしがすき間なくぴったりくっついて います。体のほかの場所の血管は、もう少しゆるく、栄養や水分がしみ出せるようになっているのですが、脳だけは違います。

おかげで、細菌や有害な物質は脳に入れません。とてもありがたいしくみ です。

ただ、この関所には困ったところがあります。通してほしい薬まで、まとめて止めてしまう のです。

あなた あなた

体を守るための関所が、治療の邪魔もしてしまうということですか。

Torapon Torapon

そのとおりなんです。関所は「よい薬」と「悪い物質」を見分けてくれません。 大きな分子は通さない、という単純な基準で門を閉じています。そして、いま使われている認知症の新薬は——まさにその「大きな分子」なのです。


薬は、関所で止められていた

レカネマブやドナネマブは、抗体(こうたい) という種類の薬です。

抗体は、体が細菌やウイルスと戦うためにつくるたんぱく質で、とても大きな分子 です。脳のなかにたまったアミロイドβという物質にくっついて、掃除を助けるはたらきをします。

問題は、その大きさでした。

大きい分子ほど、関所を通れません。 抗体の薬を点滴で入れても、脳に届くのは、投与した量のごくわずか(1%にも満たないとされます)。残りは、体のほかの場所をめぐって終わります。

点滴スタンドを持つ高齢男性のイラスト

ここで、少し見え方が変わってこないでしょうか。

いまの薬が「進行を少し遅らせる」程度にとどまっているのは、薬の力が弱いから、とはかぎらない のです。そもそも、現場にほとんど到着していなかった。

だとすれば、やるべきことは薬を強くすることではありません。どうやって現場まで届けるか。 いま研究者たちが取り組んでいるのは、そこです。


方法① 超音波で門を開ける

ひとつめは、いかにも力技に聞こえる方法です。

超音波を使って、関所の門を一時的に開ける。

やり方はこうです。まず、ごく小さな泡(マイクロバブル)を血液に流します。そこへ、狙った場所に集めた超音波を当てます。すると泡が細かく震え、血管の壁の細胞をそっと押し広げる のです。

開いた状態は、長くても48時間ほどで元に戻る とされています。その間に薬を届ける、という発想です。

実際の結果

アメリカのウェストバージニア大学で行われた試験では、3人の患者さん にこの方法が試されました。結果は——

アミロイドの塊が減る速さが、32%上がった。

現在は、レカネマブと組み合わせた試験が 5人 を対象に予定されています。

あなた あなた

血管の壁を押し広げてしまって、危なくないのでしょうか。

Torapon Torapon

そこは研究者の方々も心配されているところです。繰り返し使ううちに、関所そのものが傷んでしまう可能性 が指摘されています。関所は本来、脳を守るための大事なしくみですから。開けっぱなしにしていいものではない のです。


方法② 通行証つきの乗り物に載せる

もうひとつは、もっと賢いやり方です。

門を無理に開けるのではなく、もともと門を通れるものに、薬を載せてもらう。

実は、関所にもいくつか「通用口」があります。脳が必要とする栄養や物質を運び込むための入口で、そこには 受け取り役(受容体) が待ち構えています。鉄を運ぶための入口などが、よく知られています。

そこで研究者は考えました。薬に「通行証」をつけて、その通用口から入れてしまえばいい。

製薬会社ロシュが開発している 「ブレインシャトル」 という技術が、これにあたります。名前のとおり、脳行きの送迎バス というわけです。デナリ・セラピューティクスという会社も、似た考え方の技術を進めています。

顕微鏡で研究をしている人のイラスト

実際の結果

ロシュが、ガンテネルマブという抗体薬をこの「送迎バス」に載せて試したところ——

44人の参加者のうち、いちばん多い量を使ったグループでは、4人中3人でアミロイドの塊が完全に消えた。

「減った」ではなく「消えた」です。数字だけを見れば、目をみはる結果です。


ここは正直に ― まだ数人の話です

さて、ここからが大事なところです。

上に書いた数字を、もう一度並べてみます。

方法 対象人数 結果
超音波で門を開ける 3人 塊の減る速さが32%上昇
通行証つきの乗り物 44人中、最高用量は 4人 うち3人で塊が消失

3人。4人。

これは、医学の世界では 「確かめた」とは言えない人数 です。研究者自身も「今の予備的な研究は、規模が小さすぎて効き目を確認したことにはならない」と述べています。

さらに、はっきりしていないことが3つあります。

① アミロイドが消えれば、症状もよくなるのか これは、まだ分かりません。アミロイドを減らす薬が、そのまま「記憶が戻る薬」になるわけではないことは、これまでの経験からも明らかです。

② 長く続けて安全なのか とくに超音波の方法は、繰り返すと関所が傷む可能性が指摘されています。

③ どの方法がいちばん良いのか 複数の方法が同時に走っており、どれが最も安全で効果的なのかは、まだ誰にも分かりません

ある研究者は、慎重にこう述べるにとどめています。

「今後数年のうちに、いずれかの方法が承認されるだろう」

あなた あなた

「数年のうち」だと、いま困っている家族には間に合いませんね……。

Torapon Torapon

正直に申し上げれば、そのとおりです。この記事は「もうすぐ治ります」というお話ではありません。 ただ、行き詰まっていた場所に道が見えてきた、ということは、知っておいてよいと思うのです。


それでも、意味があると思う理由

期待を煽るつもりはありません。それでも、この研究には意味があると思っています。理由は2つです。

ひとつめ。「効かない」のではなく「届いていない」と分かったこと。

これは、大きな違いです。効かないのなら、薬を一から作り直さなければなりません。でも届いていないだけなら、届け方を工夫すればいい。すでにある薬が、そのまま活きる可能性が出てきます。

ふたつめ。この技術は、アルツハイマー病だけの話ではないこと。

関所に阻まれて困っているのは、認知症の薬だけではありません。パーキンソン病も、脳腫瘍も、同じ壁の前で足踏みしています。関所を越える方法がひとつ確立すれば、その先はいろいろな病気に応用できます。

道が一本通ると、そのあとは早い。医学の歴史では、そういうことが何度も起きてきました。


いま、私たちにできること

こうした研究の話を読んだあと、私がいつもお伝えしていることは同じです。

待っているあいだにも、できることがあります。

  • 気になる変化があれば、早めに相談する。新しい薬ほど、早い段階でないと使えません
  • ☑ 血圧・コレステロール・血糖の 数字を把握しておく。認知症のリスクとつながっています
  • 耳の聞こえ を軽く見ない(補聴器の記事はこちら
  • 体を動かす。研究がどう進んでも、これが土台であることは変わりません
  • ☑ 新しい治療の情報は、製薬会社の発表そのものではなく、医師や公的機関の解説 で確かめる
  • ☑ 「治る」とうたう自費診療やサプリには、いったん立ち止まる

とくに最初の項目です。進行を遅らせる薬は、症状がごく軽い段階でなければ使えません。「様子を見よう」と待っているあいだに、使える時期を過ぎてしまうことがあります。

認知症のごく初期のサインについては、こちらにまとめています。 👉 認知症の種類とMCIをやさしく解説


おわりに

薬が効かないのではなく、届いていなかった。

この事実を知ったとき、私はなぜか少し救われたような気持ちになりました。行き止まりだと思っていた道が、実は曲がり角だった ——そんな感じでしょうか。

もちろん、まだ3人や4人の話です。ここから先、うまくいかないことのほうが多いかもしれません。医学の世界では、期待された技術が消えていくこともよくあります。

それでも、脳という閉ざされた場所に、どうやって手を届かせるか。その問いに、世界中の研究者が本気で取り組んでいる。そのことは、覚えておいてよいと思うのです。

私がもっと早く、母の病気に気づいていれば——。

もし戻れるなら、母の症状が出はじめたころに戻って、母と父に伝えたいです。いま、認知症のすごい治療に取り組んでいる方たちがいるんだよ、と。

今日も、無理のない範囲で。


参考にした情報

  • MIT Technology Review「アルツハイマー治療薬、血液脳関門を突破するイノベーション」。集束超音波(インサイテック社)、ロシュの「ブレインシャトル」、デナリ・セラピューティクスの技術、ウェストバージニア大学およびロシュの試験結果について
  • 前提となる薬の話は、当ブログの認知症の薬、いま何が変わったのか にまとめています

※この記事は一般的な情報提供を目的としたものです。紹介した技術は、いずれも研究・治験の段階にあり、日本で治療として受けられるものではありません。効果や安全性が確認されたものでもありません。治療については、必ず主治医にご相談ください。 未承認の治療をうたう自由診療については、慎重にご検討ください。